ひさしぶりに雑記。
今日はヒマがあったので、映画『永遠の0(ゼロ)』を観にいってきました。
平日ですが、今日はレディスデーらしくほぼ満員でした。
現在大ヒットしている映画なので、すでに観たという方も多いと思います。太平洋戦争において命を散らした、ひとりの特攻隊員の生涯を描いた物語です。
結論から言うと、とてもおもしろい映画でした。おもしろい、というのはとくにinteresting(興味深い、刺激のある)なおもしろさですね。もちろんCGを駆使した見事な戦闘シーンなど、単純にスペクタクルな見所もたくさんありましたが、それがこの作品の根幹というわけではありません。
戦争が、ニュースや物語の題材になるとき、よく「~の戦いにおいて、戦死者○○万人」みたいな言い方ってあるじゃないですか。でも実際には、そうやって命を落とした人たちにだって一人ひとり、それぞれに思いや生きざまがあったはずです。
この『永遠の0』に登場する、日本海軍のゼロ戦パイロット・宮部久蔵(演:岡田准一)も、歴史的にみれば大戦の中のひとつの戦いで、死亡した大勢の兵士のうちのひとりにすぎません。
現代に生きる司法浪人生・佐伯健太郎(三浦春馬)が、あることをきっかけに、宮部が特攻で命を落とした自分の祖父であることを知り、その特攻に至った経緯について調べようと思い立つところから、物語ははじまります。
戦争を生き抜き、年老いたかつての戦友たちのもとを訪ね歩く健太郎のもとに聞こえてくるのは、宮部が天才的な腕前を持つゼロ戦パイロットであったこと。そして同時に、戦いを恐れ、基地に生きて帰ってくることにのみ執着した「臆病者」であったということでした。ときには、宮部の孫にすぎない健太郎に対して、露骨な嫌悪感を向けてくる老人さえ現れます。
日本から遠く離れた南方の戦地に送られた宮部には、愛する妻と、生まれたばかりの娘がいました。その大切な家族のために、「どんなことをしても、生きて帰ってくる」こと。それが唯一の、彼が誓った約束であり、彼の願いでした。
そんな宮部が、なぜ「成功イコール死」である「特攻」という最期を選ぶに至ったのか。そこには戦後60年、これまで決して表に出てくることのなかったある秘密が隠されていたのです――。
ここからは、ぼくの個人的な感想・意見になります。
この『永遠の0』は、戦争を題材に扱った物語ではありますが、いわゆる「反戦モノ」ではないと思います(だからといって、ここを誤解してほしくないのですが、決してこの作品は「戦争を肯定・賛美」しているわけではありません!)。
天才パイロットの宮部は、できるかぎり乱戦を避けることで生還しようとしますが、敵機をまったく撃墜しようとしない、というわけではありません。実現性の低い作戦に対しては、上官であっても敢然と異議を唱えるし、仲間や部下がひとりでも命を落とさないよう、あらゆる努力も惜しみません。
戦争は悲劇だし、不幸だけど、なによりも「現実」なのです。大事なことは、逃れられない運命の中で、それでも精一杯生きぬくということ。それが宮部が伝えたかったこと、そしてこの映画が言いたかったことだと、ぼくは感じました。
当時の考え方からすれば、戦いから徹底的に逃げて自分の身を守ろうとする宮部は、臆病者で異端だったのかもしれません。しかし、もし日本人がすべて、宮部と同じ行動を取っていたとしたら、太平洋戦争はまったくちがう結末を迎えていたかもしれないのです。
人とちがう生き方を貫くということは、大変な意思の強さが必要です。宮部久蔵は、その強さを備えた軍人であり、その強さを家族や次世代の人々に託してこの世を去っていったのだと思います。
ぼくは、映画の最後に宮部のことを語った人の言葉を聞いて、思わず涙があふれました。また、サザンオールスターズの桑田佳祐がこの作品のために書き下ろしたという主題歌「蛍」も、非常に感動的でした。
内容に関して、いろいろと意見がある人も多いかもしれませんが、この映画に関してはすべての日本人が鑑賞すべき作品であると思います(できれば、中韓をふくめた世界中の人たちに観てほしい!)。
文:デジマン
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